朝日地域の映像アーカイブ事業等」カテゴリーアーカイブ

八坂神社

<ご祭神>
素盞鳴尊(すさのおのみこと)  稲田比売命(いなだひめ)  応神天皇(おうじんてんのう)  伊弉冊尊(いざなぎのみこと)  菊理姫(きくりひめ)

<由 緒>
当社は今から約千七百年前、神功皇后(じんぐこうごう)が三韓を征して還幸されたとき、この地の蛇谷山に祇園牛頭天天王(ぎおんごずてんのう)(素盞鳴尊)を祀り給うたことがはじまりとされています。はじめは祇園牛頭天天王宮と称されましたが、神功皇后の御子応神天皇の御願所となり、応神寺とも呼ばれるようになりました。
さらに読む以来、歴代天皇の尊崇あつく、神殿の造営並びに修理が繰り返されてきました。室町時代初めには、応神寺の塔頭(たっちゅう)として応神十四坊が成立しています。
その頃の氏子村は、この頃成立した田中の郷十三ヶ村(田中・清水山・馬場・市・乙坂・甑谷・坪谷・間栗・御油・在田・栃川・宝泉寺・天王)となっています。
応永三十四年(1427年)には、田中の郷領主飛鳥井雅縁(あすかいまさより)公が十七日間の参籠をして大般若経(だいはんにゃきょう)の転読をしたのは有名です。慶長三年(1598年)の検地の際には豊臣秀吉公より社領の寄進を受けています。これはこの後、結城秀康(ゆうきひでやす)公の寄進状、松平忠昌(ただまさ)公の朱印状により認められています。
ついで明和元年(1764年)には、三河の国西尾藩主松平氏の祈願所となり、神門の寄進・神饌料(しんせんりょう)をうけるなど、それぞれの部門の特別な信仰をも受けています。
明治時代に入って神仏分離令が出され、長きにわたった神仏混淆(しんぶつこんこう)に終止符が打たれ、しばらく阿麻伎美神社(あまぎみじんじゃ)、続いて八坂神社と称されるようになりました。現在も近郷近在の総鎮守(そうちんじゅ)として尊崇されています。
昭和三十六年(1967年)本殿造営の折り、工事中内陣壇下(ないじんだんした)より多数の平安仏像群が発見され、その内五躯が国の重文に指定され、それが契機となって収蔵殿が新設されて、八坂神社関係の一切の文化財が収蔵されました。これらの文化財の出現によって応時の隆盛を偲ぶことが出来ます。
<文 化 財>
国指定重要文化財
○木造阿弥陀如来坐像  1躯
○木造釈迦如来坐像  1躯
○木造阿弥陀如来坐像  1躯
○木造菩薩形坐像  1躯
○木造光背  1躯
県指定有形文化財
○木造十一面女神像  1躯
町指定民族文化財
○八坂神社神事願人坊踊り

八坂神社独特の祭り

祇園祭(ぎおんさい)

疫病神とも言われるご祭神にちなんで、疫病その他の災いから免れるよう祈って齊行される祭で、600年前室町時代からの伝統を持つ神事。おあたり番には御輿渡御や願人坊踊りが氏子中を巡幸する。

祇園祭の動画はこちら

獅子渡御(ししとぎょ)

稲の育成特期に氏子中を巡幸して、虫害をはじめ人々を病害から守る神事で、この祭りも室町時代からの伝統神事。猿田彦と獅子頭を中心に「ハーナヤ、オーシヤ」のかけ声と共に渡御する。

獅子渡御の動画はこちら

水無月大祓式(みなづきおおはらいしき)

夜8時社前の齊庭(ゆにわ)に囲いを設け、八台の神籠(ひもろぎ)にお供え物をして齊火(いみび)を焚く古式ゆかしい幽玄な祓いの神事で、素朴な巫女舞が奉納される。

水無月大祓式の動画はこちら